ちょっと風邪ひいちゃいまして、鼻水出るし早く寝たいんですけど、これだけは書きたいかなと思って書いてます。
最近、約50年も逃亡していた過激派組織「東アジア反日武装戦線」のメンバーであった桐島容疑者のニュースが話題となっていますが。
事件はわたしが生まれて間もない頃ですよ。だから全く知らなかったですけど。
感じずにはいられないものが、ある。
犯罪を犯しているのに、償うものを償わずに潜伏し続け、逃亡し続けたことは、事件に巻き込まれた被害者の方やご遺族、ご親族の皆様には無念でしかないのではないかと思うと、、、言葉がありません。
犯罪を犯した者を擁護する気持ちもないし、どんな人生を生きようと、わたしには正直知ったこっちゃないんですけど。
事件でさえ、最近まで知らなかった、一部分しか知らない、わたしが論じるのは身の程知らずなのかもしれないんですが。
ただ、思うこと。
感じるのは「自分を生きたかったんだろうな」って。
本当の自分を隠し、かりそめの自分を生きて、50年。
その間どんな気持ちだったのかな、って。
わからないながらも、想像してしまいますね。
うーん。
いつもびくびくして、いつばれるか、いつ捕まるかわからず暮らして、幸せってあるのだろうか。
俺は逃げ切ったぞ、って、思えたのだろうか。
自分の名前ではない名前でいて、内向きに内向きに、、そんな人生、意味があるんだろうか?
否、そうでないからこそ、最期に実名を名乗ったのだろう、と。
わたしなら自首するかな。そもそもそんな犯罪しませんけど。
きっとインテリな方なのだろうと思うんですよ。
本当ならもっと世の中の役に立つ仕事なり、生き方なり、出来たんだろうと思うんですよ。
潜伏生活で、罪を償わず、逃げ切った、という見方を大方の方はするのかなと思うんですが。
わたしは、死ぬ間際に実名を名乗った、ということが、人生の辛さ、もの悲しさを物語っているような気がしている。
容疑者が亡くなってしまって、事件の真相は闇に葬られ、浮かばれない方々もいるでしょう。
容疑者側に立つのも、おかしな話なのかもしれないけど、わたしは、容疑者は罪を償ったとはまったくもって思わないが、でも、罪は背負って生きたような気がする。
真偽はわからないけれども。
でも最期に実名を名乗った、という事実が。
自分という人間を、生きられなかった、かりそめの人間で生きた、という、罪償いを、彼なりにしたと思いたい。
この事件から、【自分の人生を生きる】大切さを、改めて感じられた気がする。